「仏陀とその宗教の将来」
                                              ビムラオ・アンベードカル著
(一)  
多くの宗教の開祖がいる中で、四人がいて、彼らの宗教は過去に世界を動かしただけではなく、 
  今なお巨大な数の人々を揺り動かしている。
 彼らとはブッダ、ジーザス、マホメット、そしてクリシュナである。 
これらの四人の性格の比較と彼らが教宣活動に取った姿勢の比較が
ブッダと他との間の対照のはっきりした点を明らかにする。
 他からブッダを区別する第一の点は、彼の自己否定(無我)である。
バイブルの隅から隅まですべて、ジーザスは彼が神の子であって、そして神の王国に入ることを願う人々が、
もし彼を神の子と認めないならば没落するであろうと主張している。
マホメッドはさらにいっそう歩を進めた。ジーザスのように彼もまた、彼が地上における神の預言者であることを主張した。
その立場に立って彼は、救いを求める人々は彼が神の預言者であることを認めるだけではなく、
最後の予言者であることもまた,認めなければならないと宣言した。
クリシュナはジーザスとマホメッドの両方を一歩超えていた。
彼は単に神の子であることや、神の預言者であることで満足させられることを拒んだ。
彼は神の最後の預言者であってさえ満足ではなかった。
彼は彼自身、神と呼ばれることにも満足しなかった。
彼は彼がParameshwarであるか、さもなくば彼の信者たちが記述するように
Devadhideva(God of Gods)神々の神であると主張した。
 ブッダは決していかなるそのような地位も自身に僭称しなかった。
彼は人の子として生まれ、普通の人としてとどまることに満足し、
普通の人として彼の教法を説いた。
彼はけっしていかなる超自然的な生まれも超自然的な力も主張しなかったし、
彼の超自然的な力を示すために奇跡を行いもしなかった。
ブッダはマルガダータ(正道を教示するもの)とモクシャダータ(超越を教示するもの)との間に明確な区別を作った。
ジーザス、モハメッド、それにクリシュナは彼ら自身に対してモクシャダータの役割を要求したが、
ブッダはマルガダータの役割を演ずることで満足した。
 また、別の違いが四人の宗教的教師の間にある。
ジーザスとマホメッドとともに、彼らの説くところのものは神の言葉であり、
神の言葉として彼らの説くところのものは絶対に正しく、疑いを超えたものであった。
クリシュナは神々の神として彼が引き受けたところに従った。それゆえ、彼が説くところのものは、神によって発せられた神の言葉であった。それらは最初であり最後であり、誤りのなさに対する疑いは起こりさえしなかった。
ブッダは彼の説くところに対して、いかなるそのような絶対的な誤りのなさをも主張しなかった。
マハパリニッバーナ・スッタ(大般涅槃経)において彼はアーナンダに説いた。
 彼の宗教は理性と体験に基づいている。そして彼の信従者たちは、
彼の教えを単にそれらが彼から発したからという理由で正しいと認めたり、縛り付けてはならない。
理性と体験に基づいてあるがゆえに、いかなる彼の教えも、
もしそれらが特定の時代や特定の状況において、当てはまらないとわかったら、
修正することも、もしくは捨てることさえ自由だった。
彼は彼の宗教が過去の死木に数え入れられるべきではないと望んだ。
彼は彼の宗教がいつまでも新鮮で、いつの時代にも役立って存続することを望んだ。
これが彼が彼の信従者に対して、必要とされる場合の必要性のごとく、削ったり、切ったりする自由を与えた理由だ。
他のどの宗教的教師もそのような勇気を示しはしなかった。
彼らは修正を許すこと恐れた。というのは彼らは修正の自由が彼らの築いた骨組みを壊すことになりはしないかと感じたからだ。
ブッダは少しもそのような恐れを持たなかった。彼は彼の基礎に自信があった。
彼は知っていた。
もっとも激烈な偶像破壊者でさえ、彼の宗教の核心を破壊することは出来ないだろうことを。
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