仏弟子ラーフラのこと

 

現代のインド人禅僧、ボディーダンマ師(俗名ムルリク・コブラガデ)が
最近、仏子ラーフラ尊者のことがとても気になるのです、と言う。

 釈尊は悟りを開かれてのち、しばらくしてからカピラバストゥーに帰られた。

そのことは仏教聖典「釈尊のご生涯とみ教え」にくわしい。
釈尊は母に言われた通りに、財産を相続して下さいと訴えるラーフラをそのままサンガに連れ帰り、
弟子に命じて僧形となし、出家得度させてしまわれる。
父王と母ヤショダラーのショックはいかばかりであったかと察せられる。
「財産の相続者ではなく正法の相続者とならせよう」と実行されたというのである。

 ボディー師は2016年8月25日より正式に、テランガナ州、アディラバードに
新たに建設したインド山曹源寺において、かつてカルナタカ州、ビジャプールのインド山一滴寺で行っていたような
禅塾を再び開き、貧しい子弟を預かり、仏教教育を目指している。
中で優秀なものを出家させて、自分と同じように日本に送り、修行をさせたいと構想している。
しかし、この子をと思って親に提案して見るが、親たちは我が子が僧侶になることには同意しないという。
それには人々がビクシュ(出家僧侶)というものがどういうものなのかをまだ十分に知らないので、無理もないのである。
しかし、今、寺の留守番に来て貰っている家族の男の子が、
坊さんになってもいいと考える様になり、普段は沙弥の姿をしている。眼鏡をかけた賢そうな子である。

 ボディー師は、釈尊が一子ラーフラをいきなり、なかば強制的に出家させたことを、
いまさらのようにとても気になっているようだ。何度もそのことを私に語った。

 実はその会話の中で、私にとってとてもショッキングなことがあった。
それはラーフラ尊者が若くして亡くなられている、というのである。

 しかし、木津無庵師等がまとめられた新訳仏教聖典では、釈尊涅槃の場面にラーフラ尊者は登場している。
驚いて質すと、英文のウィキペディアに仏子ラーフラはシャーリプッタやモッガラーナよりも先に亡くなった、
となっているというではないか。さっそくネットで見てみると、なるほど彼の言う通りであった。

 今、私が編集して全日本仏教青年会の名で発行している「釈尊のご生涯とみ教え」は
天台真盛宗西念寺住職市川義成師が中心となり、
「現代語仏教聖典釈尊篇」として出版を続けて来られたのであるが、
元々は学者方が木津無庵師の「新訳仏教聖典」を元にダイジェストされ、
文体を雅文体から現代文に直されたものである。

 市川師は山田無文老師を師表と仰ぐ真人文庫の活動についても中心的役割を果たされた方である。
その「釈尊篇」を小生が引き継ぐ形で微力ながら、普及を願って続けているのであります。

 さて、ボディー師のラーフラ尊者についての話に戻りますが、さっそくに「新訳仏教聖典」の釈尊涅槃の場面を確認すると、
間違いなくラーフラ尊者は釈尊の枕辺にいるのである。出典の索引によると「大悲経」であることがわかった。
そこでさらに「仏書解説辞典」で調べると大悲経 第4、ラゴラ品であった。
木津無庵チームはこれを採用したのである。

 さて、ボディー師のラーフラ尊者についての話に戻りますが、新訳仏教聖典」の釈尊涅槃の場面を確認すると、間違いなくラーフラ尊者は釈尊の 
しかし、増谷文雄先生は、その著、「ブッダ・ゴータマの弟子たち」の中でラーフラについて、
「後世の仏伝は、彼の出生とブッダの出家をからめて、さまざまの物語を造成しているが、
よくその真相をいいえたものは見当たらないので、
いまは、そのことについてはまったく触れない。・・・(302P)」と述べておられる。

 「逓代伝法仏祖の名号」の16代ラゴラタ尊者はカピラ国出身とあるも(五燈会元)、
2世紀頃とされる14代竜樹菩薩よりもさらに2代後であり、
仏子ラーフラの同名別人であって、これまた参考にならない。

 ラーフラを描き込んだ涅槃図というものが存在するかどうかも寡聞にして知らない。
テーラワーダの長老比丘たちも最近では日本で説法したり、著書を出されたりしている。
そうした状況の中、日本で数少ない、「新訳仏教聖典」とそのダイジェスト版「釈尊のご生涯とみ教え」が、
釈尊涅槃の場面でラーフラが侍っているというユニークな仏伝として、評価されるか、
或いはテーラワーダ仏教からパーリ仏典の方よりして、論難されるときが来るかもしれない。

関わっているものとしては、なにゆえ木津無庵編纂チームは、
大悲経の一品を採用したのであろうか?
知りたいところであります。