アンベードカルの不可触民解放運動について
  −ガンディーとの対立を中心にして−
          
仏教大学文学部史学科四回生 広瀬 直孝

目次

はじめに・・・2

第一章 アンベードカルの生い立ち・・・3

  1. 不可触民

   2. 幼年、青年時代

   3. 解放運動へ

第二章 アンベードカルのカースト批判とガンディーのカースト論・・・・7

  1. アンベードカルのカースト批判

   2. ガンディーのカースト論

第三章 アンベードカルのガンディー批判・・・・13

  1. ガンディーの活動への批判

   2. ガンディーの思想への批判

第四章 アンベードカルの主要な活動・・・・20

  1. 憲法起草委員会委員長として

   2. 新仏教運動の指導者として

おわりに・・・23

注・・・・24

参考文献・・・28

アンベードカル略年譜・・・31

***********************************************************
はじめに

 不可触民、インドにおける最下層階級であり、最も差別されてきた人々

である。この不可触民出身で不可触民解放のための活動をし、ついには

独立インドの初代法務大臣となったのが、B・R・アンベードカルであ

る。私がこの論文で、アンべードカルを取り上げることにしたのは、彼

の人生において、常に不可触民の解放を最優先に考え、時には、インド

全体を敵に回してでも不可触民解放のために行動したことに興味を持っ

たからである。この論文では、そういったアンべードカルの不可触民解

放運動の過程においてのカースト制度批判、ガンディーとの対立の過程

においての、アンベードカルのガンディー批判を中心に取り上げていき

たいと思う。

 アンベードカルにおける過去の研究としては、主なものとして、荒松

雄氏の『三人のインド人』、山崎元一氏の『インド社会と新仏教−アンべ

−ドカルの人と思想』がある。また、この論文で使用する中心文献とし

ては、アンべードカルの著作物である『カーストの絶滅』と『会議派と

ガンディーは不可触民に何をしてきたか』を使用することにする。

 章の構成としては、第一章では、アンべードカルが生まれてから、ガ

ンディーとの対立に至るまでの生い立ちを取り上げていくことにする。

第二章では、アンベードカルによるカースト制度に対する批判と、ガン

ディーのカースト論とアンべードカルのカースト批判に対する反論を取

り上げていくことにする。第三章では、アンべードカルによるガンディ

ーの活動と思想に対しての批判を取り上げていくことにする。最後に第

四章では、アンべードカルが不可触民解放のためにした主要な活動を取

り上げていくことにする。

第一章 アンべードカルの生い立ち

  1. 不可触民

 不可触民というのは、ヒンドゥー社会の中でも最下層階級であり、古

代の法典(マヌ法典)(1)により「触れると穢れる人間」とされていた。ま

た、その起源については詳しくは分かつていないがカースト制度に由来

をするものであると考えられている。不可触民は長い年月を経て触れて

はいけないだけでなく、見ることも、近づくことも、その声を聞くこと

さえいけないとされた。

 不可触民への差別としては例えば、彼らは他のヒンドゥー教徒と同じ

神を信仰しているにもかかわらず、ヒンドゥー寺院への立ち入りが禁止

され、カースト・ヒンドゥー(2)が使用する井戸や貯水池の使用さえも禁

止されていたのである(3)。

 こうした差別に対して解放運動を行っていったのが、不可触民出身の

アンベードカルであつた。

  2.幼年、青年時代

 ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル(Bhimrao Ramji Ambedkar)

は、一八九一年四月一四日に、中央インドのムホウで十四人

兄弟の末子として生まれ、一家はボンベイ州(現マハーラーシュトラ州)

最大の不可触民カースト 「マハール」 (4)に属していた。

 東インド会社軍の兵士であつた彼の父サクパルは、教育の重要性を知

り、子供を学校に通わせていた。ビームラーオは幼少のころから頭角を

あらわし、小学校で彼の才能を認めたバラモンの教師が自分の姓である

アンべードカルを与えた。

学校では、アンベードカルは様々な差別を受けた。差別を受けたこと

により、彼は自身が不可触民であるということを思い知らされ、カース

ト制の厚い壁を身をもって体験をしたのであつた。

 アンベードカルの家族は後にボンベイに移り、マラータ高等学校にし

ばらく通った後に名門のエルフィンストーン高等学校に転校した。しか

し、ここでも日常的に教師や生徒から差別を受けた。

 また、アンベードカルはエルフィンストーン大学に入学し、バローダ

の藩王の援助を受け、一九一二年に学士資格試験に合格した。卒業後に

は彼は、バローダ藩王国軍の下級将校となったが、父の死もあり、半月

ほどで辞職した。
                                                                                                             
一九一三年六月、アンべードカルは帰国後十年間バローダ藩王国に奉

職するという条件つきで、バローダの藩王の奨学金を受けた。彼はアメ

リカのコロンビア大学に留学し、コロンビア大学の修士号と博士号を得

たのであつた。

一九一六年六月、/アンベードカルはロンドンに移って、十月には弁

護士資格を取得するためにグレイズ・イン法曹学院に入り、また、ロン

ドン大学の政治・経済学院で経済学を学んだ。しかし、奨学金が切れた

ために学業半ばながら帰国を余儀なくされ、一九一七年八月にボンベイ

に帰着した。

 帰国後しばらくの間は、バローダ藩王との協約どおりバローダ藩王国

の役所で奉職をした。しかし、ここでも不可触民であるがゆえの差別を

受けたのであつた。このため十一月中旬にはボンベイに戻った。

  3、解放運動へ

一九一七年になり、ガンディーが不可触民制撤廃の活動を始めた。また、

インド国民会議派も不可触民制撤廃を綱領のひとつに挙げた。

 アンベードカルはこの頃は、このようなカースト・ヒンドゥーの不可触

民解放運動には懐疑的であり、参加をしなかった。むしろ、彼はカース

ト・ヒンドゥーによる運動では彼らに利用されるだけであり、自分達で運

動を起こしていかないといけないと考えていた。

一九二〇年三月、アンべードカルはコールハープール藩王国のマーン

ガオンで藩王臨席の下で開かれた不可触民大会において議長として活躍

し、また、同年五月シュリー・シャーフーが議長の下でナーグプールで

第一回全インド不可触民大会が開かれた際に、アンべードカルは演説を

し、不可触民の政治的権利を彼ら自身の手で手に入れることを主張した。

一九二〇年七月、アンベードカルはコールハープール藩王からの援助

を受け、それに自分の貯金と借金を資金にして、再びイギリスに留学し

た。イギリスで彼は、ロンドン大学の修士号と博士号だけでなく、弁護

士の資格をも得たのであつた。また、アンベードカルはイギリス滞在中

は勉学だけではなく、前インド担当大臣モンタギューに会い、不可触民

のことを訴えた。

 ロンドン大学に博士論文を提出後、アンベードカルはドイツに渡りボ

ン大学へと留学をした。アンベードカルはコロンビア大学とロンドン大

学の博士号、法廷弁護士資格、ボン大学留学という肩書きを持ち、

一九二三年四月にボンベイへと戻り、本格的に不可触民解放運動へと取り組

んでいくこととなった。

一九二四年七月、アンベードカルはボンベイで被抑圧者救済会を設立

し、一九二六年にはボンベイ州立法参事会に留保された被抑圧階級議員

として指名された。

一九二七年、アンベードカルはボンベイ州のチャオダール・タンクと呼

ばれる貯水池が不可触民に開放される決議が四年前にされたにもかかわ

らず、それがいまだに実行されていないことに怒った。そして、彼はマ

ハード市で大集会を開き、貯水池に向かって行進して水を飲んだ。

 その後、カースト・ヒンドゥーにより参加者は暴行を受けたが、その

後もアンべードカルは各地で貯水池の使用、寺院への立ち入りなどのた

めに実力行使をとった。しかし、カースト・ヒンドゥーの態度は変わら

ず、一九二七年一二月二五日、二六日に彼はマハードで集会を開き、公

衆の面前で不可触民制を法文化した『マヌ法典』を焼却した。

一九二八年六月、アンべードカルはボンベイの公立法科大学の教授に

就任をしたが、まもなくイギリスがインドにどの程度の自治を認めるか

を調査するためサイモン委員会(5)を派遣した。この委員会にはインド人

の代表が加えられていなかった。国民会議派はボイコットし、全インド

で委員会への反対運動が起こつた。しかし、アンべードカルはサイモン

委員会に協力し、成人普通選挙の場合では不可触民留保議席(6)を求め、

成人普通選挙でない場合では不可触民分離選挙(7)を求めた。

一九三〇年二月、イギリスはインド統治法(8)改正のために英印円卓

会議(9)をロンドンで開催をした。アンベードカルは、国民会議派に「イ

ギリスの犬」と罵られた。しかし、アンベードカルはこの円卓会議に出

席し、不可触民のための分離選挙制と政治的保護を訴えた。

一九三一年、第二次円卓会議が開かれた。この会議に向けて出発をす

る前日、アンべードカルはガンディーと会見をした。ここでアンベード

カルは分離選挙の必要性を説き、ガンディーは不可触民のカースト・ヒ

ンドウーからの政治的分離は自殺行為として分離選挙に反対した。この

ためにアンベードカルはその場で席を立ち、会見は物別れに終わつた。

この会見からガンディーとの対立関係が始まった。

第二章 アンべードカルのカースト批判とガンディーのカースト論


   1、 アンべードカルのカースト批判

 アンべードカルは、不可触民解放運動をしていく中でカースト制度が

不可触民差別の根源となつていると考えた。彼はカースト制度について、

不可触民だけでなく、インドにとっても有害であると主張した。彼のカ

ースト批判では、カースト制度に対する批判だけでなく、改革のために

必要なことも述べた。彼のカースト批判の内容は以下のとおりである。

 第一に、アンベードカルは、インドにおいて最優先されないといけな

いのは社会改革であると主張した。その上で、彼はカースト制度のこと

を改革をする上で道を妨げる怪物であると述べ、社会改革によってこの

怪物を倒さない限り政治改革も経済改革も成功しないと言った。このよ

うに彼は、カースト制度の廃絶の軋跡は也碧改革が必要であることを

主張した。

 第二に、アンべードカルはカースト制度を擁護する意見に対して以下

のように反論した。カースト制度の職業の世襲は労働者を分断した階級

制度である。このような制度のもとでの職業では、人々は自分の職業に

対して嫌悪を抱き、その職業への逃避願望を持つ。そして、カースト・

ヒンドゥーにより軽蔑と汚名を投げつけられるために人々の士気を落と

している。これらのことから経済効率が悪く、有害な制度であることは

明確である。以上のように彼はカースト擁護論者に反論した(10)。

 また、アンべードカルはカースト擁護論者に以下のようにも反論した。

カースト制度の下での社会制度はカースト・ヒンドゥーの傲慢さと邪悪

で利己的な差別精神を具現化して、下位の者に押し付けている。カース

トはヒンドゥーに堕落と分裂をもたらし、ヒンドゥーに共通の活動を妨

げた。これによりヒンドゥーの統一した生活を妨げ、社会と民族を形成

することを妨げてきた。このように彼はカースト制度の有害性を説いて、

カースト擁護の意見を否定した。

 第三に、ガンディーが主張した四ヴァルナ制度(11)に基づきヒンドゥー

社会を再構築するという意見をアンベードカルは否定した。彼は四ヴア

ルナ制度に対しては、最も堕落した社会制度であり、これにより社会を

再構築することは弊害が大きいと主張した。

 アンべードカルは、四ヴァルナ制度を否定した理由として以下のよう

なことを主張した。四ヴァルナ制度は大衆が知識を得る機会を拒んだ。

それにより大衆を堕落させ、武装する権利を拒んで大衆を無力化させた。

この制度は大衆を堕落させることにより強者による弱者支配の固定化を

目的としている(12)。以上が、彼が主張した四ヴァルナ制度の否定の理由

である。

 第四に、アンべードカルはカースト制度だけでなく、ヒンドゥー教を

も批判した。その批判としては、カーストは破壊されないといけないが、

カーストを支えてきたのはヒンドゥー教であり、カーストの神聖性を生

み出したシャーストラ(13)の神聖性を否定しないといけない。彼はこのよ

うにヒンドゥー教の聖典であるシャーストラの否定をした。

ヒンドゥー教批判の理由として、アンべードカルはヒンドゥー教は命

令と禁止の大群にすぎない。ヒンドゥー教は道徳性の自由と自発性を奪

い、服従をさせる。このような宗教は破壊されるべきであり、このよう

な宗教の破壊は反宗教的行為ではなく、義務である。

彼はこのようにヒンドゥー教批判の理由を挙げて、批判した(14)。

 また、アンベードカルは改革のために最も必要なものに理性と道徳を

挙げた。しかし、彼はヒンドゥー教がそれらを大衆から奪っている。こ

のためにヒンドゥーの間でのカーストの廃絶は不可能であると述べ、ヒ

ンドゥー教を破壊しないと改革をすることはできない、とヒンドゥー教

の破壊を主張した。

 アンベードカルはこのようにヒンドゥー教を激しく批判をしたが、宗

教自体は必要なものと考えていた。彼は宗教改革のために必要なことと

して次の五つの点を挙げた。これらを引用する左記の通りである。

 一、 すべてのヒンドゥーに承認されたヒンドゥー教の標準的な経典

 が必要である。これはもちろんヴェーダ、シャーストラ、プラーナ

 又は、ヒンドゥー教のすべての他の経典で扱われた神聖性と権威を

法によって停止をさせられるべきである。そして、これらの経典の

宗教的、社会的教養を説くと罰せられるべきである。

  二、 もし、ヒンドゥーの間の司祭職が廃止されるならそれは良いこ

 とである。しかし、これは不可能だと思うが司祭職はいずれにせよ

  世襲を廃止するべきである。ヒンドゥー教を信仰するすべての人々

  に司祭職になる資格があるべきである。国によって規定をされた試

  験に合格し、国が出したサナド (許可証) を持っていないヒンドゥ

 ーは司祭職の資格を持つことができない、と法によって規定される

  べきである。

  三、 サナドを持っていない司祭によって行われた儀式は法で正当な

  ものでないとみなす。そして、サナドを持たずに儀式を行った司祭

 は刑罰を受けるべきである。

  四、 司祭は公務員であるべきであり、そして、司祭は他の市民と同

  様に通常の法に従い道徳、信条、礼拝の事柄は国の規律に従うべき

  である。

  五、 司祭の数はICS (インド高等文官) と同様、国の必要数に従っ

  て法で制限されるべきである(15)。

  アンベードカルはヒンドゥー教を批判したが、このように、同時にヒ

 ンドゥー教の改革のための意見も出した。この意見からは、彼がヒンド

 ゥー教改革のなかでも、特にバラモンによる司祭職の世襲の禁止を重視

 したことが分かる。

 なぜ、アンべードカルがバラモンによる司祭職の世襲の禁止を重視し

 たかという理由は以下のような考えからである。バラモンが精神的、道

 徳的な堕落を招いた。また、カースト制度はバラモンの差別的思想であ

 るブラフミニズムを具現化したものであり、バラモンが差別の根源とな

 っている(16)。彼はこのようにバラモンが差別の根源であるという考えか

 ら、バラモンの司祭職の世襲を禁止することを主張したのであつた。

 アンベードカルのカースト批判としては、最後にガンディーが中心と

なつてイギリスからスワラージ(自治)を獲得するための運動に対する

 批判である。この批判の中では、彼はスワラージの獲得よりもカースト

 制度の破壊を最優先にすることを述べた。

 アンべードカルはスワラージ獲得のための運動を批判した理由として、

 以下のような意見を述べた。ヒンドゥー社会はカースト制度がなくなる

 ことにより、初めて自身を守る力を得ることができる。そのような内部

 の力なくしてのスワラージは隷属への第1歩である人(17)。このように、ア

 ンベードカルはカースト制度の廃絶なくしてのスワラージには意味がな

 いことを主張した。

 以上のようにアンベードカルのカースト批判では、カースト制度は不

可触民だけでなく、インドにとっても有害な制度であることを主張した。

さらに、彼のカースト批判は常に、カースト制度の廃絶を訴えていると

 いうことがいえる。

 2、 ガンディーのカースト論

 ガンディーのカーストに対する考えとしては、一九二一年から一九二

二年にわたって、グジャラーティー語の新聞.『ナヴァ・ジーヴァン』で

カースト制度に対する見解を述べた。その主な内容は以下の通りである。

一 これまでヒンドゥー社会が存続してこれたのは、カースト制度の上

に立脚しているからだ。

 二 カーストは軍隊組織の各部門のようなものであり、各部門は全体の

利益のために働いている。

 三 カーストを作り出せる共同体は、独特な組織化能力を持っている。

 四 カーストは初等教育を普及させるための手段がある。また、カース

トは政治的基盤や司法機能も持っている。各カーストに旅団を編成させ

れば、軍隊を作り出すことも容易である。

五、異カースト間の共食と通婚は民族統一には必要はない。食物の摂取

は、排泄と同じくらい汚い行為である。食事も排泄と同様に隠れて行わ

れなければいけない。

六 異カースト間での共食と通婚を認めないからといってカースト制度

が悪いとはいえない。

七 カーストは抑制の別名である。カーストは快楽を制限し、カースト

 の枠を超えての快楽の追及を許すことはない。これが異カースト間での

共食と通婚の禁止である。

八 カースト制度を破壊し、西欧の社会制度を取り入れることは、カー

スト制度の魂である職業世襲の原理を棄てることである。世襲の原理は

永遠である。それを変えることは、無秩序を生み出す。もし、バラモン

がシュードラとなり、シュードラがバラモンとなるようなことが起これ

ば、混乱がおきるだろう。

九 カースト制度は社会の自然な秩序であり、宗教的な装いがある。他

 の国々ではカースト制度の有用性が理解されておらず、インドほどにカ

ースト制度の利益を得ていない(18)。

 このようにガンディーはカースト制度を擁護する意見を述べた。しか

し、後にガンディーはカースト制度に対して批判的な意見を述べて、そ

の解決策として無数にあるカーストを四つの大きなカーストに統合して、

古代の四ヴァルナ制度を復活させることを主張した(19)。

 ガンディーの四ヴァルナ制度に対する説明は以下のようなもので為る。

主にヴァルナは生まれに基づくものである。そして、職業も生まれなが

らに決まっており、祖先の職業を世襲しないといけない。このようにガ
                                                                                                        
ンデイーは四ヴァルナ制度の説明として職業の世襲を重視した。

 また、ガンディーはアンべードカルに対しても反論した。その反論の

内容は次のようなものである。

一カーストは宗教とは関係なく、慣習である。

二 カーストは有害であるが、ヴァルナとはなんの関わりもない。

三 ヴァルナの法は職業の世襲だけでなく、職業に貴賎がなく、全ての

 職業が善であると教えている。

四 アンベードカル博士の取り上げた経典は信頼に催するものではない。

 宗教は最悪の見本で判断するのではなく、最良の見本で判断されるべき

である(20)。

 以上がアンべードカルに対する反論である。ガンディーのカースト論

は、当初はカースト制度をインドにとつて必要不可欠なものとして擁護

し、アンべードカルに対しても反論した。しかし、徐々にカースト制度

に対して批判的になっていき、カースト制度の代りとして、四ヴァルナ

制度を復活させることを主張したのであつた。

第三章.アンべ1ドカルのガンディー批判


  1、ガンディーの活動への批判

 ガンディーはアンべードカルと同様に不可触民解放のための運動をし

た。しかし、アンべードカルはガンディーについては、不可触民に何も

しなかった、とガンディーの反不可触民制運動を激しく批判した。アン

べ−ドカルはガンディーの活動批判では、ガンディーがいかに不可触民

間題に真剣でなかったかと批判した。その批判の主な内容を取り上げて

 いくことにする。

 第一に、ガンディーが国民会議派党員の資格として手紡ぎ布の着用を

義務づけたが、不可触民制の否定とそれを証明するために不可触民を使

用人として雇用することはしなかったことへの批判である。このことに

対して、アンベードカルはガンディーがそれをしなかったのは、不可触

民間題に対して、真剣でないからだと批判した。

 第二に、ガンディーのヒンドゥー寺院と公共の貯水池の開放運動に対

して、ガンディーが不服従運動をスワラージをイギリスから勝ち取るた

めには使ったが、寺院と貯水池の開放に対して使われなかったことに対

しての批判である。これには、アンべードカルは寺院の開放に関して

ガンディーの故郷のグジャラートでは全く開放をされていないことを取り

 上げて、批判した(21)。

 さらに、アンべードカルはガンディーが不可触民に敵対していると批

 判した。その批判の内容は以下のようなものである。第一に、ガンディ

ーが一九三一年に設立したハリジャン奉仕者団(22)についてである。これ

 に関しては、アンべードカルとガンディーの思想の違いから激しく対立

 した。アンべードカルは不可触民制の撤廃は、不可触民自身の手によっ

てなされるべきと考えた。一方、ガンディーは不可触民制の撤廃はカー

 スト・ヒンドゥーの慈悲によってされるべきと考えた。

  アンべードカルは、団の運営から不可触民が除外されたことはおかし

 いと主張した(23)。一方、ガンディーは不可触民のための福祉活動はカー

 スト・ヒンドゥーが罪を償うためのものである。そのため団はカースト・

 ヒンドゥーにより運営されるべきであると言って、不可触民が団の運営

 に加わることに否定的な意見を述べた(24)。

  アンべードカルはこのようなハリジャン奉仕社団の運営に対して、不

 可触民を排除したことにより不可触民はハリジャン奉仕者団とは無関係

 であることを感じていき、不可触民に隷属の精神を生み出させたと批判

 した(25)。

 第二に、不可触民への分離選挙をめぐっての批判である。アンべ−ド

 カルは不可触民がカースト・ヒンドゥーと分離されているため不可触民

 を保護するためには、分離選挙が必要であると考えた。そして、イギリ

 ス政府に対して不可触民への分離選挙を訴えた。これにより、第二次英

 印円卓会議において、イギリス首相マクドナルドがコミュナル裁定(26)を

 出し、不可触民への分離選挙が認められた。

 一方、ガンディーは不可触民がカースト・ヒンドゥーとの分離するこ

 とを恐れ、不可触民への分離選挙に激しく反対した。コミュナル裁定後、

 ガンディーは分離選挙を撤回させるために「死に至る断食」を始めた。

 アンベードカルはガンディーの命を救うためにやむなくガンディーと会

 見し、プーナ協定(27)を結んで不可触民の分離選挙を撤回した。

  アンべードカルは、ガンディーのこの断食について「英雄的どころか

 汚いやり口であった」と批判した(28)。

  アンべードカルはこれらのことから、ガンディーのことを不可触民の

「公然の敵」であると批判した(29)。

 最後に、アンべードカルはガンディーの不可触民制撤廃運動が失敗し

た理由を指摘した。その内容は以下の通りである。

 第一の理由は、カースト・ヒンドゥーがガンディーの不可触民制撤廃

のアピールに応じなかったことである。このことではガンディーがスワ

ラージの使徒として見られ、マハートマ(偉大なる魂)の名声を得ていたた

めに、彼の不可触民制撤廃運動は、大衆には道楽としか見られていなか

つた。このため、ガンディーの活動は影響を与えることができなかった。

 第二の理由は、ガンディーは不可触民制撤廃運動でカースト・ヒンド

ウーと敵対することを望まなかったからである。これは、ガンディーが

単に自己満足のために不可触民制の撤廃を説いたからであり、寺院や

井戸の開放でもカースト・ヒンドゥーに対して不服従運動や断食をしな

かった。そればかりでなく時には、カースト・ヒンドゥーの歓心を買うた

めに不可触民と敵対した。ガンディーの不可触民制撤廃運動は口先だけ

あり、行動を起こすことをしなかった。

 第三の理由は、ガンディーが不可触民を組織化し、強力にすることを

望まなかったからである。彼は不可触民が強力になり、ヒンドゥーから独

立することでヒンドゥーが弱体化することを恐れた。ハリジャン奉仕者

団がそれを最も顕著にしており、団の目的は、不可触民に隷属の精神を

生み出させて不可触民の独立の精神を殺した。独立の精神こそ隷属を打

ち破るものであるのに、ガンディーは団の運営から不可触民を除外する

ことによりそれを殺した。ガンディーは不可触民の解放者と呼べない(30)。

 以上がアンベードカルの指摘した理由である。この指摘からも、アン

ベードカルがガンディーがいかに不可触民問題に対して真剣でなく、不

可触民に敵対していたかと批判したということが分かる。

二 ガンディーの思想への批判

 アンベードカルはガンディーの活動だけでなく、その思想についても

激しく批判した。アンべードカルはガンディーの思想のことをガンディ

ー主義と言って批判した(31)。アンべードカルのガンディー主義への批判

は経済思想、カースト論等がある。これらの批判でアンベードカルは、

ガンディー主義は差別的な思想であることを明らかにしようとした。そ

の批判の内容は以下のようなものである。

 先ず、ガンディー主義の経済思想への批判である。ガンディーの経済

思想では機械と近代文明を嫌悪し、それらに反対するようなことを述べ

ていた。アンベードカルはそのことに対して機械と近代文明が多くの害

悪を生み出したことを認めた。しかし、アンべードカルはその害悪は機

械と近代文明だけのせいでなく社会組織にも問題があり、機械と近代文

明だけのせいにはできないとガンディーに反論した。

 さらに、アンべードカルはガンディーとは反対に機械と近代文明の必

要性を説いた。アンべードカルは機械と近代文明の必要性を説いたのは、

人が文化的な生活をおくることが必要であると考えたからである。アン

べ−ドカルは文化的な生活をおくるためには余暇が必要であり、その余

暇を作り出すには機械と近代文明が必要であることを説いた。その上で、

アレべ−ドカルはガンディー主義を誤りであると言った。それは、ガン

デイー主義では大衆は希望を持つことができない。ガンディー主義は人

間を動物以上に扱わないと批判した(32)。

 アンベードカルが文化的な生活をおくること重視したのは、民主的な

社会ではそういったものが市民に保障されていると考えたからである。

しかし、彼はガンディー主義では貧富の差や階級差に神聖性を与えてい

る。ガンディー主義は人間に動物に帰れ、貧困に帰れ、無知に帰れと大

衆に呼びかけている差別的な思想であると批判した(33)。

 さらに、アンべードカルはガンディー主義の経済の思想に対し、階級

差に固執している。故に、貧富の差に絶対的な神聖性を与え、差別的で

あると批判した。また、アンべードカルは、ガンディーがストライキの

行使に対して否定的な意見を述べたことから、ガンディーが有産階級を

傷つけることを望んではおらず、階級差と貧富の差に固執していて、い

かに差別的な思想であるかと明らかにしようとした。

 ガンディー主義のこのように階級差と貧富の差に固執していることに

対して、アンべードカルはガンディー主義は差別的であり、人々に隷属

の精神を生じさせていると説いた。また、彼は階級構造については、圧

制、虚栄、自負、利己心、不安、貧困、堕落であり、自由、自立等の喪

失であると、いかに階級構造が差別的であるかと説いた(34)。そして、ガン

デイー主義は階級構造を教義とし、差別的な思想であると批判した。

 ガンディー主義の差別的な思想の中でもアンべードカルは不可触民に

対して、有害な思想として、ガンディーのカーストまたはヴァルナの思

想を批判した。その批判では、先ず、アンベードカルはカースト批判を

した。一方、ガンディーはアンベードカルのカースト批判に反論した。

それに対して、アンベードカルはガンディーに反論した。アンべ−ドカ

ルのガンディーへの反論の内容は以下のようなものである。

 第一に、アンべードカルはガンディーがカースト制度とヒンドゥー教

が無関係であると指摘したことに対してである。このことに関して、彼

は現実に神聖視されている経典は、カースト制度と不可触民制の遵守を

義務として定めていると反論した。

 第二に、ガンディーが宗教を最悪の見本で判断するのではなく、最良

の見本で判断するべきであると反論したことに対して、アンべードカル

は、ヒンドゥー教では最悪の見本が多く、最良の見本が極めて少ない。

彼はこのように述べて、ヒンドゥー教の教義自体に問題があることを指

摘した。

 第三に、アンべードカルはヒンドゥー教の聖者に対しての批判である。

彼はヒンドゥー教の聖者について、今まで彼らの中で、ヒンドゥー教を

攻撃した者はいない。バラモンに関しては、日々、カーストの規則を犯

していると、彼はガンディーをはじめとするカースト・ヒンドゥーの指

導者達を激しく批判した。

 第四に、アンベードカルはガンディーの矛盾についても指摘した。例

えば、ガンディーが世襲制を守ることを説いたが、アンべードカルはガ

ンディーとその家族は守っていないと矛盾を指摘した。さらに、ガンデ

ィーの主張した四ヴァルナ制度に対して、彼はカーストをヴァルナと呼

び変えただけで、自身と大衆を欺いていると批判した。

 最後に、アンべードカルはヒンドゥー社会には道徳的再生が必要だが、

ガンディーをはじめとするカースト・ヒンドゥーの指導者達は失格であ

ると述べた(35)。以上がアンべードカルのガンディーに対する反論である。

次に、アンべードカルがガンディーのカーストまたは、ヴァルナに対す

る思想がいかに差別的であり、不可触民にとって有害なものであるかと

いうことについての批判を取り上げていくことにする。

 第一に、ガンディー主義がカーストまたは、ヴァルナを社会理想とし

ていることに対して、アンべードカルはガンディー主義の理想としてい

るカーストまたは、ヴァルナはヒンドゥー間に隷属関係を生じさせた。

そして、それを大衆に快適なものとしてきたとアンべードカルは批判した。

 第二に、アンべードカルはガンディー主義ではシュードラと不可触民

になされた悪を彼らの特権であると思い込ませたと批判し、これはガン

ディー主義のテクニックであると説いた(36)。さらに、アンべードカルは

ガンディーが不可触民のことをハリジャン(神の子)と呼んだことも批

判した。彼はこのことで、不可触民がシユードラと同化することが不可

能になったとガンディーを批判した(37)。

 第三に、ガンディー主義がヴァルナを復活させようとしたことに関し

て、アンべードカルは不可触民にとって有害なものとして批判した。そ

の上で、アンべードカルはガンディー主義については最高の保守主義で

あり、インドの忌まわしい、死にかけた過去の蘇生と再生が目的である

と説いた(38)。このことから彼は、ガンディー主義は不可触民にとって有

害な制度を永続させようとしているとして不可触民にとって有害な思想

であると批判した。

 さらに、ガンディー主義の下での不可触民制の撤廃に関して、アンペ

ードカルは反不可触民制という徳は幻想的なものでしかない。また、ガ

ンディー主義の下での不可触民制撤廃では不可触民は社会から分離され

たままである。そして、ガンディー自身もそれを知っていると説き、ア

ンべ−ドカルはガンディーの思想が不可触民にとっては有害な思想でし

かないと批判した。

 アンべードカルはガンディーの思想批判として、最後に不可触民に対

して呼びかけをした。彼は、ガンディー主義は不可触民にとって有害な

思想であり、不可触民制を永続させようとしている。ガンディー主義は

保守的なヒンドゥー教である。これは不可触民にとっては、恐怖の部屋

である。不可触民にできるのはガンディー主義から逃げることだけで

ある(39)。以上のことから、アンべードカルがガンディーの思想について

は、不可触民にとって有害なものでしかないと考えていたことが分かる。

第四章 アンべードカルの主要な活動

  1、憲法起草委員会委員長として

一九四六年七月、制憲義会への代表が各州議会で選ばれることとなつ

た。アンベードカルはベンガル州で指定カースト議員、及びムスリム連

盟の支持を得て、制憲義会議員に選ばれた。

一九四七年三月、新総督マウトバッテンが就任し、インド分割の裁定

を出し、二つの制憲議会が作られることとなった。インドは分割されて、

東ベンガルはパキスタンに移ったために割当議席が減った。これにより

アンベードカルは制憲議会議員の資格を失ったが、国民会議派の支持を

得てボンベイ州議会の代表として選ばれた。後に、独立インドの初代首

相ネルーはアンベードカルに法相を打診した。アンベードカルは後に計

画・開発相の地位を与えられる約束で承諾した。

一九四七年八月一五日にインドとパキスタンは分離独立した。その直

後の八月二九日には制憲義会は憲法起草委員会を任命し、アンべ−ドカ

ルはその議長に指名された。そして四八年二月には草案は完成し、制憲

議会議長の下へと提出された。

 アンベードカルはこの憲法草案のなかでも、第一七条(「不可触民制」の

廃止)において

 「不可触民制」は廃止され、いかなる形式におけるその慣行も禁止さ

 れる。「不可触民制」より生ずる無資格を強制することは、法律によ

 り処罰される犯罪である(40)。

と不可触民制を禁止し、カーストによる差別も禁止している。また、そ

れ以外にも不可触民への保護条項、違反者への処罰等が含まれた。

一方、従来の主張である分離選挙を撤回し、プーナ協定に沿った留保

議席・合同選挙案を入れた。他にも不可触民への社会的ボイコット禁止規

定を入れようとしたが、憲法の条項としては受け入れられなかった。し

かしながら一九五五年の不可触民犯罪法(41)の中に、これと類似したもの

が入れられた。

一九四九年一一月二六日にこの憲法は採択をされ、アンべードカルは

次にヒンドゥー法(42)の改正へと着手した。一九五一年にアンべードカル

は改正法案を上程した。しかし、この法案は全ヒンドゥー教徒に近代的・

民主的な、家族法を適用しようとしたために保守派のカースト・ヒンドゥ

ーから強い反対を受け、ネルーも妥協に走り、法案は廃案となつた。

 このことに失望をしたアンべードカルは法相を辞職した。その後は野

党のリーダーとして活躍していくが、徐々に仏教へと傾斜していくこと

となった。

新仏教運動の指導者として

 アンベードカルは不可触民解放運動のなかで常にカースト・ヒンドゥ

ーの厚い壁に阻まれてきた。このことでヒンドゥー教のなかでの解放運

動に限界を感じ、ヒンドゥー教とカースト制を破壊しない限り不可触民

の解放はありえないと感じていくようになった。

一九三五年、アンベードカルは不可触民の集会でヒンドゥー教徒とし

て死ぬつもりはないことを宣言していた。この宣言に対して、ムスリム

やシク教徒、キリスト教徒から歓迎の電報がうたれ、ベナレスで活動し

ていたスリランカ上座部系の仏教団体「大菩提会」も電報を打ち仏教へ

の改宗を勧めた。この年以前にもアンべードカルには様々な宗教からの

誘いがあつたが、これ以後一層アンべードカルへの誘いが強まった。

一方、ガンディーをはじめとするカースト・ヒンドゥーはアンべ−ド

カルの改宗宣言に強く反発した。

一九四〇年代半ばになると、アンべードカルは当初は改宗先をシク教

と考えていたが、徐々に仏教への改宗を考えていくようになつた。また、

一九五〇年代に入ると『ブツダと彼のダンマ』等の仏教に関する著作物

を出すようになつた。一九五四年にはラングーンで開かれた第三回仏教

徒会議に出席をし、一九五六年一〇月一四日の集団改宗に向かっていく

のであつた。

 ナーグプールでの式では三〇万人の人が集まったといわれている。ア

ンべードカルはこの式で壇上から二二箇条からなる誓約(43)を公表した

後に、会場にいる人々に改宗を呼びかけ約三〇万人の人々が一斉に仏教

に改宗をした。この改宗は政治的な目的から行われたために従来の仏教

徒と区別をするために新仏教徒と呼ばれ、アンべードカルの所属してい

るマハール・カーストが中心となつて構成をされている。

 ここで、アンベードカルが仏教を選んだ主な理由を紹介することにす

る。第一に、仏教が不可触民制を産み出したヒンドゥー教とカースト制

度と闘ったことである。第二に、人と人の間の平等で正しい関係を本質

とし、現代科学のいかなる批判にも耐えられることである。第三に、貧困

を美化せず、経済向上を正当と認めていることである。第四に、インド

で生まれ、改宗がインド文化の伝統を損なうことがないことである。第

五に、仏教が世界で認められており外国の仏教徒と提携できることであ

る(44)。以上が、アンべードカルが仏教を選んだ主な理由である。

 この改宗から三ケ月もたたない一九五六年一二月六日にアンべードカ

ルは死去した。彼の死後も改宗者が増え一九六一年にはインドにおける

仏教徒の数は三二六万人となったが、現在は停滞しており不可触民全体

には広まってはいないようである(45)


おわりに

 アンベードカルは不可触民であるがゆえに差別を受けてきた。この経

験から彼は不可触民解放運動をし、その活動の過程において、ガンディ

ーとの対立があったのである。両者は、不可触民の解放を考えていたと

いう点では同じである。しかし、不可触民出身のアンベードカルとカー

スト・ヒンドゥー出身のガンディーという立場の違いから、激しく対立

したのであつた。

 この論文では、そういったアンべードカルの解放運動の過程における

ガンディーとの対立を中心に取り上げた。その内容としては、第二章で

は、アンベードカルが生まれてから、不可触民の解放運動に向かい、ガ

ンデイーとの対立に至るまでの生い立ちを取り上げた。第二章では、ア

ンベードカルが不可触民差別の根源としてカースト制度への批判をし、

ついにはヒンドゥー教自体も否定したことと、ガンディーのカースト制

度に対する見解と、アンベードカルへの反論を取り上げた。第三章では、

アンベードカルとガンディーとの対立においてのアンべードカルのガン

ディーの活動と思想に対する批判を取り上げた。第四章では、アンべー

ドカルの解放運動において、憲法起草委員会委員長としての活動と新仏

教運動の指導者としての活動を取り上げた。

 また、この論文の特徴としては、アンベードカルのカースト制度また

は、ガンディーに対する思想を取り上げることができた。しかし、史料、

紙数等の条件により、アンベードカルの活動、ガンディーの思想等につ

いては十分に取り上げることができなかったのが残念である。

 最後に、この論文を書くにあたり、史料を提供していただいた、明泉

寺住職の冨士玄峰氏に感謝の意を述べたいと思う。

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注(45):山崎元一 「ネオ・ブッディズム運動とその背景」、1978年、34〜35頁。

この見解はあくまで1978年発表の山崎先生の論文によるものであり、

今日の状況に関しては、山際素男先生の近著「不可触民と現代インド」を参考にされたい。

文献上の、特に政府関係の統計数字が実情を反映していないことは、インドでは周知の事実であり、

停滞どころか深く静かに巨大な地殻変動が進行していることは、山際先生の

精力的なレポートによってリーダーたちの証言から知ることができる。

(冨士)